日本に最も近い国であった#オランダ

#FIFAワールドカップ で日本は強豪オランダと対戦、2-2の引き分けとなり、とても盛り上がっている。そのオランダはサッカーの強い国というだけでなく、誰でも学校の歴史で習った通り、日本は近代化においては最も影響を受けた国であったことを忘れてならないだろう。
1600年、今の大分県に1隻のオランダ船が初めて日本に漂着した。400年以上前のことだから、それは大変なことであったと思われる。1598年6月にロッテルダム港を出港した5隻の船団のうち、生き残ったたった1隻、それがリーフデ号だった。
最初は110人いた乗組員も航海を終えた時にはたった24人が生き残るのみとなっていた。その中には、後に東京駅の八重洲の名の由来となった#ヤン・ヨーステン 、そして徳川家康の外交顧問として重用され、日本で初めて洋式帆船を建造し、徳川政権のもと有名になった三浦按針ことイギリス人の#ウイリアム・アダムス がいた。

時の権力者徳川家康は彼らの地図や航海術、造船術の知識、西洋諸国の戦況に関する情報など非常に役立つものを持っていることに興味を持ち、重用し領地や屋敷、幕府の相談役としての地位を彼らに与えたという。そののちオランダ船が長崎・平戸に入港し#日蘭貿易 が本格的に始まり、200年の間オランダは唯一の西洋国としての地位を確立した。

オランダは、ヨーロッパの化学、医学、産物、兵器などを、長崎の「出島」を通じて日本に紹介し、逆に日本の品物や知識を#東インド会社 を通して西洋に輸出したという、日本の近代化にとっては他に代えられない国であった。
世界で最初の株式会社としても知られる「東インド会社」を通じて、オランダは日本に対して貿易をスタートさせた。
オランダ人は1641年、平戸から長崎港に浮かぶ#出島 に居を移し、それからは日本との接触が許された唯一の西洋国はオランダだけとなった。オランダ人は日本にとって世界への窓としての役目を担うようになっていて、西洋の科学や書物がオラン ダ人の手を通じて日本に紹介され、それが「蘭学」として進展していった。

有名な#シーボルト は日本学者に、西洋の医学、薬学、知識を教えこみ、多くのオランダ語が取り入れられ、「ビール」は、最もポピュラーなオランダ語なのでしょう。
西洋の国々が非常に高い水準の科学的知識を有していることを日本の鎖国時代の政治家たちが認識し始めたのもこの方々のお陰なのでしょう。

19世紀に入ると世界の政治情勢が大きく変化し、世界の海の派遣を握っていたオランダに代わりアメリカとイギリスが勢力を拡大してきた。当時、シーボルトはオランダ国王を通じて、日本に鎖国を辞めるよう説いたが、受け入れられずにいたが、1853 年の米国ペリーの#黒船来航 を受けて、日本は鎖国を捨て、急速な近代化に向かっていった。
幕府は、アメリカとヨーロッパに使節団を派遣し、近代化のため、西洋の専門家や学者を日本に招いたりしたが、その中でもオランダ人は造船、海軍、医学、薬学、土木の分野で、#日本の近代化 を強力に支援することになった。

更には、造船所を設立し、西洋式病院を建設したリ、日本の近代的な医学教育体系の発達に大きく寄与したという。また、オランダの水工技術者を呼び寄せ、山が多い日本の繰り返される洪水を食い止めるための工事、大阪の淀川、木曽三川の治水工事などで洪水を防いだり、また近代的な港湾の建設にも注力、更に大阪港、長崎港、横浜港など日本の近代港湾の設計にも携わったという。

つまりは日本が鎖国時代から脱し、近代化を進めていく上で一番重要な国であったということになる。
但し、第二次世界大戦は長きにわたる親しかった日蘭関係で一時の断絶を生んだ最初で唯一の出来事と言われている。
当時オランダ植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、コショウ、スパイスなど天然資源が豊富だった。1942年、日本軍はインドネシアに侵入、2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏、そして残念なことに、4万人ものオランダ兵が日本の捕虜として収容所に連行されたという事実が残されている。1952年、オランダは日本との国交を正式に正常化に戻したが、江戸時代から明治にかけてオランダが果たした特別な役割はもはや過去のものとなり、多くの日本人にとってオランダはヨーロッパ諸国のうちの一つになってしまったのではないか。

現在日本語に残っているオランダ語からの#借用語 は、主に鎖国時代に その起源を遡ることができる。多くの日本人はそうとは気付かずに、オランダ語の言葉を日々使っている。ビール、コー ヒー、ガラス、ピストル、オルゴール、おてんばなどは、オランダ語の音をそのまま真似たもの。また、病院や盲腸、炭酸などはオランダ語の意味を漢字に転換したもの。オランダの足跡が日本人の日常生活に色濃く残っている一例に過ぎない。
オランダと日本はいつも近い存在であり続けている筈。

2025年9月25日、オランダ人の抑留経験者が来日し、日本の大学生たちと交流する会合があったという。オランダから招かれたお年寄りが、日本の大学生らに語りかける。戦争体験がテーマだった。
先ほど触れたように、日本とオランダは、第二次世界大戦で敵対した。日本軍は、オランダ領東インド(現インドネシア)でオランダ軍と交戦し、一帯を占領した。約4万人の軍人、オランダ系の住民ら民間人約9万人を強制収容所に抑留したとされる。多くの死者が出たという。
重労働や暴力、非道な扱いがあったとする証言は多く、体験者や家族に反日感情が残った。

そして現在では、以前から抑留経験があるオランダ人を日本に招き、長崎の出島や原爆資料館の視察、観光、大学生との交流といった取り組みが始まり、中央大学では戦争や抑留を体験したオランダ人と日本の#大学生の交流事業 が続いてきたとのこと。
日本への憎しみの感情を語る人もおり、学生側も戸惑っていたこともあったということであるが、大学生の繰り返しの努力、交流会のお陰で、「今の日本は良い国。今の日本の人は良い人たちだった。戦争のない世界を作ってね」、「No winner,Only loser」(戦争に勝者はおらず、敗者しかいない)とオランダの抑留体験者の方からの言葉をいただいているという。

オランダは日本史で学んできたが、こういう意味があったこと、日本の近代化に大変、力を与えてくれた国にであることを思い出し、心から感謝しなければならない。

オランダ大使館ホームページ、毎日新聞記事から一部引用いたしました】

people / 現代という時代の中での生き方・社会・音楽


*何もない
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