もうやりたいことないよ、全部やりつくしたからー作詞家・松本隆さん

peopleです     昔、日本語ROCKの走りと言われた『ハッピーエンド』というバンドがあり、その中の1人でドラマーとして参加していた松本隆さん。その活動が終わった後、作詞家として日本のロック、歌謡曲、J-POPを生みだしてきた。「木綿のハンカチーフ」、「ルビーの指環」「赤いスイートピー」など、数々の大ヒット曲を生み出してきたが、最近ニュース取材されていた。(Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

1969年に、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成し、その活動が終わった1973年に職業作詞家としてデビューしたという。日本のロック、歌謡曲、J-POPを生みだしてきたその数は知れないほど。ジャニーズ事務所の創業者であるジャニー喜多川さんからの要望で近藤真彦にも『スニーカーぶる~す』を作ったという。

ジャニー喜多川氏は、松本さんに100万枚のセールスを求めたこともあったという。KinKi Kidsのデビューシングル「硝子の少年」。その注文を松本さんと山下達郎さんが請け負ったという。松本さんが、新たなヒット曲のかたちを求めて切磋琢磨したと挙げるもう一人が作曲家の筒美京平氏だ。2人で約380曲もの作品を生み出した。シングルでは太田裕美の「木綿のハンカチーフ」をはじめ、30年以上もコンビを組んだ。 誰でも知っている曲が多い。「京平さんは歌謡曲という旧い枠組みのなかでジャンルを超えた名曲をたくさんつくっていたけど、ロックに対しては憧れのようなものを持っていた気がする。切磋琢磨しながら付き合って一緒につくった作品が今も評価されて数多く残るのは嬉しい」という。

『はっぴいえんど』の仲間であり、多くの楽曲をともに作った大瀧詠一さんは2013年にこの世を去った。1曲をのぞくすべてを松本さんが作詞した大瀧さんの1981年のアルバム『A LONG VACATION』は、何度も再発を重ね、これまで200万枚以上を売り上げている。 「明るくてポップなんだ、あの人は。日本には、そういう人はすごく少ないよね。」と。

『ハッピーエンド』

『はっぴいえんど』の1971年のセカンドアルバム『風街ろまん』のレコードは、ジャケットに、街を走る路面電車が描かれている。それこそが松本さんの原風景である「風街」だ。彼が育った渋谷、青山、麻布をイメージしている。現在松本さんが暮らしているのは神戸、京都だそうです。 「東京が限度を超えておかしくなってきちゃった。」関西っていうのは、やっぱり日本の文化の発祥地で、特に食の文化は、歴史の積み重ねだ。やっぱり京都は和食、神戸は中華がいいしね。食はでかいよ。特に年取ると」と言われている。

今後の自身の活動については、「もうやりたいことないよ、全部やりつくしたから。」と言われている。

松本さんの書く歌詞はなぜ日本人の心をつかみ続けてきたのだろうか。 「『はっぴいえんど』は水があっていたけど、作詞家になってからずっと居心地が悪い。椅子に座って威張りだしちゃうと、人生終わりだなと思っている。」松本さんは、日本語でロックの作詞をはじめたが、当時、ロックは英語で歌うべきだという批判もあったため、「日本語ロック論争」が巻き起きる。そして、1973年から松本さんは歌謡曲の世界へ進出する。そこでも「歌謡曲に行った裏切り者」と言われることになったという。

ハッピーエンドが解散したあと、どうやって食おうかと思い、作詞家になろうかなと。他人のために仕事として初めて書いたのが、チューリップの『夏色のおもいで』とアグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』。2曲ともヒットしてくれた。 プロデュース業にも進出し、数年間数々の名盤を生み出したが、その後しばらくの間プロデュース業はやめた。 「プロデューサーという職業は日本にはまだ根づいてなかった。作詞家っていうのはすでに認知された職業だったから、ヒットさえすれば食えるけど、その選択はした」。

松本さんは、「毛細血管まで、自分がきちっとコントロールできてないと気に入らない面がある」と語るほどの完璧主義者だ。だからこそ、ロックやポップスのシーンで活躍していた仲間である細野晴臣さんや松任谷由実さんなどを歌謡曲の世界へ招き入れた。太田裕美や松田聖子のプロジェクトに長く関わることで、作詞家としてだけでなく、再びプロデューサーとして新しい音楽シーンを牽引することとなる。 「力っていうのは、同じ方向を向くと加算されて倍になる。が、作詞家と作曲家が逆の方向を向くと半分になってしまう。だから、自分と同じ方向に向ける作曲家を連れてくるのが一番手っ取り早い。『お金を払ってやるから、俺の言うこと聞け』っていうタイプのプロデューサーが多いけど、僕はそれを愛でやった。だから、仕事も愛でできた。愛があるから、みんなお返しで愛してくれる、みたいな。それは『はっぴいえんど』のときから、ずっとそうだった。あんなに才能ある人たちが周りに集まってくれたのは、きっとそういうことだろうなって思う」

個人的には、前から松本隆という人は自分にとって不思議な人だった。『ハッピーエンド』で日本語ロックの走りと言われた方が、なぜ日本の歌謡界にどっぷりつかったのか、よくわからなかった。今もよくわからないかもしれない。 「もうやりたいことないよ、全部やりつくしたから。」うらやましいです。