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プロデューサーに抜擢されたのは故ブルース・フェアバーンだが、これには、“ライヴのサウンドをそのまま、アルバムに活かす”との方向性の元に決まったらしい。
そして、’86年の4月にカナダ、バンクーバーでレコーディングが開始され、約2ヶ月というハイスピードでアルバムを仕上げた。
タイトルは『Slippery When Wet』(邦題はワイルド・イン・ザ・ストリーツ)で、1986年8月ついにリリースされる。
このリリースと前後して日本からのツアーが名古屋からはじまり、途中メンバーの念願でもあった日本武道館の地を踏むことになる。この武道館公演は、アルバム・リリース直後というタイミングの悪さも影響してか、空席が目立つところもあったらしいが、内容はその後の大躍進を想像させられる充実したステージだったようだ。
10月頃にはアメリカに戻りツアーをするが、その途中にアルバムからのシングル(禁じられた愛)が、MTVや全米ラジオで集中して流れるようになり、それをきっかけに、遂にはアルバム
が全米ナンバーワンにまで上り詰めるという快進撃が始まった。その後イギリスに渡ってのヨーロッパ・ツアー中にもアルバム・セールスが落ちず、「ツェッペリン」の記録を破る“8週連続ナンバーワン”という記録を残すことなる。
さらには、シングルカットされた「禁じられた愛」、「リヴィン・オン・ザ・プレイヤー」も立て続けに全米ナンバーワンを記録。これは、当時のハード・ロック系のアルバムとしては異例、まさに彼らは“飛ぶ鳥を落とす勢い”で、ロック史に残るモンスターアルバムと共に、世界を代表するモンスターバンドとして、頂点へ登りつめた瞬間でもあった。
当時だけでも全米800万枚、全世界で約1800万枚を超え’87年度年間アルバムチャート1位を記録している。
’87年9月からは日本への凱旋公演を行い、すべてのステージでソールドアウト、どのアーティストよりも最も席が取れないアーティストとして、日本での人気も絶対的なものになった。
派手な衣装にロン髪でパフォーマンスで、TV・CMテープなどに登場したが、ロック・バンドがコマーシャルに出てくるのはまれで、特に今まで以上にロックに女性ファンが急増したという点ではボン・ジョヴィの功績は高い。
88年の初め次作アルバムの曲作り、リハーサルが始まる。前作があまりの好成績だったが、この時の彼らは怖いもの知らずなのか、前作とほぼ同様の制作過程、同プロデューサーのもと、
レコーディングを順調にこなしていった。アルバムにはツアーを重ねた彼らの経験が活かされ、「友情や旅」がテーマになった。
そしてタイトルには、彼らの故郷でもある『NEW JERSEY』(ニュー・ジャージー)がそのまま選ばれたのだった。
そしていよいよ1988年9月に全世界で同時リリース。1ヶ月後にはシングル「バッド・メディシン」がアルバムと共に全米1位を、さらに「ボーン・トゥ・ビー・マイ・ベイビー」が3位、名バラードの「アイル・ビー・ゼア・フォー・ユー」までもが1位を獲得し、結局『ニュー・ジャージー』は4週連続の1位、年間チャート4位と、前作と引けを取らないほどの成功を収めた。ジョン&リッチー(プラス、デズモンド・チャイルド)のソングライティング能力と、バンド・パワーがみごとに合致したこの名曲揃いのアルバムで、誰もにも止めれないほどの人気を決定付けたのだ。
その頃、この時代では異例のソビエト(今のロシア)でのロック・フェスティバル(モスクワ・ピース・フェスティバル)が行われ、ボンジョヴィはスキッド・ロウ、モトリー・クルー、スコーピオンズ、シンデレラ、オジー・オズボーンらを従えて“ヘッドライナー”を務め、ソビエト(ロシア)でも認められる存在となる。
(モスクワのレーニン・スタジアムで’89年8月に2日間で約14万人を集めたという) byせいいちさんの評論参照