people
1992年10月に待望のニューアルバム、『Keep The Faith」(キープ・ザ・フェイス)がリリースされる。“信念を貫く”との意味があるタイトルに加え、カヴァーにもメンバー5人の手のひらが重なっていることからバンド自体がこれから先も高い協調性と強い団結力で結ばれていることをアピールしているのが窺える。良い意味で、前作、前々作の音楽性を踏襲しない、’90年代型の曲調(ボン・ジョヴィらしい解釈)で、新たな試みも感じられる快心作となっている。
しかし、時代は’90年代に突入して新しいムーブメントの波が生まれはじめ、’80年代にHR/HMシーンで活躍していたバンドたちも急速に力を失うようになって行く。
ボン・ジョヴィも例外ではなく、アルバムにともなうツアーは、今までのように各地でソールド・アウトとは行かなくなった。
『キープ・ザ・フェイス』は、全米最高5位と、前作、前々作に比べセールス的にも落ちているわけだが、彼らはこれを気にすることなくボン・ジョヴィとして演奏することを真の喜びとしてツアーを行っていたようである。アルバムを作り、ツアーを行うことだけに重点を置き、セールス的なことは二の次と考えていたのだろう。
’94年に入り、ニュー・アルバムの準備に取り掛かるが、スケジュールの都合から次作はベスト・アルバムという事に決まった。
デビューちょうど10年が経ち、今までの活動を振り返るとともに、これから未来への10年に向けてということからか?タイトルは『CROSS ROAD』になった。
(1994年10月リリース)。
このベスト・アルバムには新曲が2曲収録され、屈指の名バラード「オールウェイズ」、その後のライブ定番曲「サムディ・アイル・ビー・サタディ・ナイト」が、また日本独自盤には日本のファンのために「TOKYOロード」も収録されている。
バンド初のベスト盤、さらにその新曲「オールウェイズ」が話題を呼び、日本だけでも80万枚を越え、世界的にみても1200万枚を超えるメガ・ヒットアルバムになった。
同年5月に行なわれた奈良の東大寺での国内外のミュージシャンを揃えたイベントでは、ジョンとリッチーが参加し、ショーを大いに盛り上げた。さらには、デヴィッド・ブライアン(key)がソロ・アルバム「オン・ア・フル・ムーン」を日本でリリースするなど、順調みえた彼らであったが、春頃から噂されていたアレック・ジョン・サッチ(b)の脱退が正式に決まる。「バンドを続けるだけの気力、体力がなく、限界を感じた」というのが大まかな理由だったそうであるが・・・。
後任のベース・プレイヤーは加えず、バンドは4人で続けていくと決意する(助っ人に、ジョンと親交のあるヒュー・マクドナルドがベースを任せられる)。毎年恒例のクリスマス・イベント(ニュージャージー、カウント・ベイシー・シアター)では、ヒュー・マクドナルド(b)
を加えた5人でのライブを行っている。またこの年12月17日には、リッチーが人気女優ヘザー・ロックリアとパリで結婚式を挙げた。
‘95年に入り、ジョンの自宅にあるスタジオで、ニューアルバムの制作に取り掛かる。プロデューサーは、「クロス・ロード」の2曲の新曲に携わったピーター・コリンズ氏が担当し、「キープ・ザ・フェイス」で取り入れた目新しいサウンドより、”純粋なロックン・ロールに
焦点を絞ったサウンド”を表現するというコンセプトの元に制作された。そして、1995年6月12日、タイトル『THESE DAYS』(ジーズ・デイズ)として日本先行リリースされた。
日本では発売1週目にしてチャート1位を記録し、この頃のグランジ・オルタナティヴ・ロック・ブームの中で老舗HR/HMバンドの域に達しているボン・ジョヴィのあいも変わらないロックファンからの反響に、ボン・ジョヴィ・ブランドの底力をまざまざと見た感があったのだ。世界的にももちろん注目され、英「ウェンブリー・スタジアム」では3日間すべてがソールド・アウト(延べ21万人の観客動員)、その後も全米、南米、オーストラリアとツアーを続け、その頃では珍しい南アフリカでのライブも成功し、ワールド・ワイドな活躍ぶりをさらにアピールすることになった。
さらにこの頃のエピソードに、日本公演でのチケット代の一部を“阪神大震災”で被害に遭われた人々への義援金として、被災者の方々へ寄付したという。また、この年のMTVアウォーズ授賞式(アメリカとヨーロッパの両方で行われた)に出席し、「最優秀ロック・バンド」として賞を受賞するが、この時の受賞スピーチでジョンは「俺たちとって、唯一敵となることは、何かを無視してしまうこと」と、フランスの核実験に対する抗議のメッセージを訴えた。
byせいいちさん評論参照
Bon Jovi – It’s My Life 歌詞と和訳 – よかブログ (hatenablog.com)