Bon Jovi Ⅳ

people

アルバム・タイトル候補には、「Danger Zone」などもあったそうだが、結局は『7800゜Fahrenheit』(7800゜ファーレンハイト)として、1985年4月にリリースされる。これと時期を同じくして、初の単独日本公演を東京・中野サンプラザを皮切りに計8公演を行うが、
すべてがソールド・アウトの状態で、新人バンドとしては破格な成功を収めた。この頃からアルバム発表後のツアーは日本からというジンクスが生まれたそうだ。

日本公演後はイギリスに渡り、ヘッドライナーとしてヨーロッパ各地をサーキットした。
アメリカに戻り地道なツアーは続けるものの、日本やイギリスのようには認知されず、地元ではまだまだ無名に近い状況だった。
その状況下、セカンドアルバムのセールスもゴールドを記録し、その授賞式では「授賞式は家族や友人がいるニュージャージーで行いたい」というジョンの希望で、地元ニュージャージーのメドラウンド・アリーナにて地元の人々がスタンディング・オベーション
の中行われたのだ。

1~2作と確実に足場を固め、バンドとしての力量もかなりついてきたが、さらに時代を大きく揺さぶり、呼び寄せるのは次作に入ってからである-


1986年の年明け早々からジョンとリッチー(サンボラ)は、リッチーの家の地下室(物置兼洗濯場らしいが)で、安物のテープレコーダーとギターを持ち込み、休暇を返上しての曲作りを開始する。この時の2人には曲作りのアイデアがどんどん生まれ、約2ヶ月で40曲ほどは出来ていたそうだが、より完璧な作品にするために外部のソングライターを呼ぶことになる。(これは、キッスのポール・スタンレーのアイデアらしい)。

そのソングライターこそが、その後のジョン&リッチーにとって、曲作りの技術的なノウハウを学ぶための大きなチカラとなる、デズモンド・チャイルドである。
リハーサル・スタジオに入りデモ・テープを作るが、アルバムに収録する曲を絞り込むのに、スタジオの周りや地元のピザ屋に集まっていたティーンエイジャーをスタジオに招き入れ、候補曲を選考したというエピソードがある。(byせいいちさん(評論家))

Bon Jovi – You Give Love A Bad Name (Official Music Video) – YouTube

一人暮らし向けおしゃれインテリア家具通販サイト【6JOHAN】