大学時代の思い出で「京都への憧れ」が強かった事ともある程度似ているのだけれども、そのころは#山陰地方に対する漠然とした思い入れ も強かった。今もそうであるとは思うのだけれど、そのころは山陰というと「萩」「津和野」というイメージがあった。記憶だと夏休みに新幹線で姫路まで向かい、そこから在来線で北方向に向かい、鳥取、米子を通って松江に行ったと思う。松江では、いま朝ドラで放映されている#ラフカディオ・ハーン (小泉八雲)の記念館を訪ねた。記念館で見たのか、旧住まいで見たのかははっきりしないが、ハーンの椅子が異様に机に比べて高かったということが印象に残っている。なんでも極度の近眼だったからという説明書きがあった。

ハーンは松江の後、熊本、神戸を経て東京に移り住み、帝国大学、早稲田大学で教鞭をとったという。自分も子供の頃は早稲田大学のすぐそばに住んでいたことや、一時、エレクトロニクス商社に勤務した時も近くの新宿大久保にハーンの記念館があったりして、昔から、なんとなく親近感が湧いていたような気がする。

旅のその後は#津和野、萩 の順番で回って行ったと思う。貧乏学生だったので、旅館やホテルではなく、国民宿舎に泊った記憶が残っている。今と比べて、国民宿舎は本当に安価で泊まれたので助かった。

その時に、どこでどう出会ったのか忘れたけれど、薄茶色の汚れたランニングシャツに薄切れた短パンにゴム草履、頭はぼさぼさに伸ばし放題でリュックを担いだ#ヒッピー風の若者 と友達になった。ほとんど見かけないスタイルになってしまったので、今の時代だとあまり人は寄って来ないかもしれない。聞けば、担いでいるテントで何泊か野宿をしてきたという。国民宿舎へ泊る予定だと言ったら、なんとなく付いてきて、国民宿舎で交渉の結果、彼も宿泊OKということになった。今ならきっとだめだろう。山陰は当時、夕方が早く、5時ごろに酒を買いに行ったら、シャッターではなくて鉄の柵が降りていてびっくり。柵の隙間からやっとのことで金を出してウイスキーを受け取ったのは鮮明な記憶。
でもその日に押し掛けて、しかもあの格好で良く泊まれたと思う。その日は彼と同じ部屋で酒盛りをして、寝ることになった。
翌朝、彼は「だめだ、1回畳に寝てしまったら、もうテントには寝れないよ」とこぼしていた。今、どうしているだろう。

萩、津和野と言えば小京都と言われるほど情緒あふれていたところだった。今覚えている印象は道端の両側に澄んだ小さな川が流れていて、どこでもきれいな魚が泳いでいた記憶である。
美しい町並みは江戸時代からのものだったでしょうし、萩焼のお店や、美味しそうな料理もたくさん並んでいた記憶がある。
ただ、今回の旅はそんな周りの景色よりも、出会って友達になった人たちの印象が強烈で鮮明であった。
2日目の友人は宿舎で出会った人で、大学の4年生、京都から来た人だった。前の晩とは違って身なりのきちんとした人で、遊びに来たのではなく厄介な事情があって来たと言い出した。
「この地には結婚を約束した彼女のお父さんに会いに来た」ということでした。こちらに相談するような風に「実は京都で就職の内定が取れていたが、先日取り消し通知を受けた」という。その人の彼女は夏休みでこの地に帰っており、近くまで会いに来たが父親に会って説明するかどうか躊躇しているという。父親は大変厳格な人と聞いていたらしい。当時は今と違って、学生の売り手市場ではなく、就職事情の厳しい時代だった。

相談をされても、全く相手の方も父親も知らずでやたらなことを言えるような立場ではなかった。彼に言ったのは「後悔しないように、お会いして、きちんと話をされたらいいんじゃないですか」という言葉だけだったと思う。
彼とも夜一緒に部屋で酒を飲んで過ごすことになった。
その時の山陰の旅は歴史を感じる旅の予定であったが、全く違う方向へ心が奪われるような旅になってしまったが、そういう旅もすごく印象に残ったものであった。

山陰からは電車で山口市に入り、山口では#ザビエル教会 を訪ねた。中に入ってそのステンドグラスの美しさに圧倒された。それまでにこんなに素晴らしく、美しい#ステンドグラス を見たことがなかった。記念聖堂は、昭和27年にサビエルが山口を訪れてから400年を記念して建てられたという。内部はサビエルの一生を描いた美しいステンドグラスがあり、聖堂からは15分おきに時を告げる美しい鐘音が市街に響いた。市民にも広く親しまれていた。だが1991年(平成3年)9月5日に#失火により全焼 してしまった。1998年再建されたが、焼失のニュースを聞いた時は、本当に声も出なかった。再建はされたが、あまりにも違う姿だった。
ザビエル記念聖堂

旅の終わりに東京で2日目の宿舎で出会った例の大学生に電話をした。悩んだ挙句、結局彼女の父親には会わずに京都へ戻ったということだった。人生の厳しさを感じたものだった。
何かいろいろなことが絡んだ旅だったが、いつまでも心の中に#忘れられない旅 だった。
