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切ない思いのまま、あれから11年が過ぎた。本当につらい時でした。いつまでたっても大津波の悲劇と#大川小学校 のことを忘れることができない。11年前のその夏、大川小学校を訪ねた。言葉も出なかった。そして翌年も大川小学校へ行った。その時は子供たち全員の名前を彫った石碑が校庭の真ん中にあり、1年も経っているのに小学校の敷地へ入った瞬間から一言も話せることを許す雰囲気がなかった記憶がある。つらく哀しい時間でした。
石巻市釜谷地区の北上川河口から約4キロの川沿いにある大川小学校は2011年3月11日の東日本大震災で全校生徒の7割の74人が死亡、行方不明になった。河北新報社によれば、かつて釜谷地区はこれまでに津波が到達した記録はなく、住民は大川小学校が自然災害などの避難所と認識していたこと、しかも山と堤防に遮られて#津波 の動きが把握できなかったこと等が非難を遅らせた要因としている。
宮城県も石巻市も昭和の三陸大津波レベルであれば大川小学校には津波が来ないことを公言し、それ以上の大津波対応はしてこなかったらしい。もし大津波が来たら、ここは危険という意識は住民にはなかったとのことであった。大地震だったにもかかわらず、5分であれば可能だった裏山への避難が選択肢の後方へ押し下げられてしまったのは、大川小学校に集まった人々のほとんどに危機意識が欠けていたためであり、そのように仕向けてしまった一因は行政にあったのだろう。児童が下校準備をしているとき、地震が起きた。全員が校庭に避難した。児童の一部は迎えに来た親と帰宅したが、校庭に残った子どもたちが悲劇に見舞われた。
保護者や住民らの証言では、児童は11日午後2時46分の地震直後、教諭らの誘導で校舎から校庭へ移動した。ヘルメット姿や上履きのままの子もいた。保護者の迎えの車が5、6台来ており、「早く帰りたい」と、泣きながら母親にしがみつく子もいた。
同49分、大津波警報が出た。教諭らは校庭で対応を検討。校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。学校南側の裏山は急斜面で足場が悪い。それが原因で約200メートル西側にある新北上大橋のたもとを目指すことになったという。そこは周囲の堤防よりは小高くはなっていたが。市の防災マニュアルは、津波対策を「高台に上る」とだけ記しており、具体的な避難場所の選択は各校に委ねられていたという。
午後3時10分過ぎ、現場に居合わせた男性は、児童らが列を作って校庭から歩き出すのを目撃した。「教諭に先導され、おびえた様子で目の前を通り過ぎた」
その後、「ゴーッ」とすさまじい音がした。男性は児童らとは逆方向に走り出した。堤防を乗り越えて北上川からあふれ出した巨大な波が、学校を含む地区全体に襲いかかった。津波は児童の列を前方からのみ込んでいったという。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて男性と同様に裏山を駆け上がるなどし、一部の子は助かった。
宮城県沖で二つの断層が連動した地震が発生した場合を想定した津波浸水予測によると、河口付近の高さ5~10メートルに対し、小学校周辺は1メートル未満。だが、今回の津波は2階建ての同校校舎の屋根まで乗り越え、裏山のふもとから約10メートルも駆け上がった。
県教委によると地震と津波で死亡した宮城県の小学生は127人で、4割以上が大川小の児童だ。
市の教委は「想像を絶する大津波だった。学校の判断は致し方なかったと思う」とする。 市教委などによると、子どもを失った保護者からは「地震後、直ちに高台に避難すれば子供たちは助かったのではないか」「なぜ大川小だけがこれだけの犠牲を出したのか」と激しく指摘する意見が数多く出た。被災児童の保護者への説明が約1ヶ月後になったことへの批判もあった。
市教委によると、地震後、児童は校庭に避難し、一部は迎えに来た親と帰宅。残った多くの子どもたちが津波にのまれたという。学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々なミスが悲劇を招いた。
こんな周りの大人たちの普段からの怠慢と危機意識の薄さと判断ミスなどで幼い子の命が失われていいのだろうか。しかも74名という尊い命が。地震発生から津波が学校に到達するまで45分もあったという。議論や躊躇する前に裏山に登るのが第一ではなかったのか。本当に子供たちの命が大事だと思ったのであれば。何年たっても悔やまれる、そして残念でならない。