#野菊のごとき君なりき

初めて柴又へ行ってきた。東京育ちなのに、なぜか柴又には縁がなかった。渥美清の「フーテンの寅」さんの映画は1995年まで50作が映画化されたということであったが、もちろんよく知っている映画でストーリーもだいたいわかっていたけれど映画館に行って見るということはなかった。高校生のころ、よく映画は見に行ったけれど、そのころはもっぱらイタリア、フランスなどヨーロッパ中心の洋画が大好きであったからだと思うし、またどちらかというとだんだん興味が音楽に移っていったからかもしれない。

#柴又 に降りると、最初に寅さんの銅像が目に飛び込んでくる。確かに懐かしい姿ですね。すこしピチッとしすぎるかな。その向こうに、あの有名な商店街や帝釈天が続いていた。途中の草団子やさんで「寅さんの撮影の時はどこの店でやっていたのですか」と聞いたら、「ほとんど撮影は映画会社のセットが中心で、このあたりの雰囲気を少しづつ取り入れていたんですよ」との説明でした。この辺での撮影ではなかったのですね。

少し歩いていると「#矢切の渡し 」という文字が目に飛び込んできた。
そうだ、昔から行きたかったのは矢切の渡しだったんだということを思い出した。
昔見た映画で「野菊のごとき君なりき」という映画が心に強く残っている。

#伊藤左千夫 という人が1906年に書いた「野菊の墓」という小説を映画化したものだった。
伊藤左千夫にとって最初の小説であり、また小説はあまり残していなかったと記憶している。
学生のころ「野菊の墓」が#世界十大悲劇 の一つと書かれていたのを見たことがあった。
中学3年生の時、卒業する前に学年全員で新宿の映画館で映画鑑賞があって、その時の映画が「野菊のごとき君なりき」であった。当時は純真なころであり、映画を見ているうちに涙が止まらなくなってしまった。電気がついて明るくなって、ある腕白が後ろの方を振り向いて、でかい声で「あいつ、泣いてるぞ」と僕の名前を叫んだものだから、かなりの人が振り向いて笑って、恥ずかしい想いをしたことを今でも忘れられない。

松戸が舞台で、政夫と民子はいとこ同士で民子は2歳年上の女の子で幼い頃から裕福な政夫の家に病弱な母の看護や手伝いで来ていた。二人は仲が良く、いつもふざけ合っていたが、そういう田舎ではあらぬ噂も経ち始めていた。ある時母親に頼まれて、二人で遠くの山の畑へ綿を取りに行くように言われた。道すがら政夫は優しい民子に「民さんは野菊のような人だ」と言うと、民子は政夫に「政夫さんはリンドウのような人だ」と言い返した。
その日の帰りは夜遅くなってしまい、それもあって政夫は予定よりも早く町の中学校の寄宿へ発つことになった。政夫が発つ朝、民子は渡しまで送りに来たが、それが#生涯の別れ になってしまった。

政夫が冬休みに帰ると、民子は市川の実家に返されていて家にはおらず、政夫は家族から民子との結婚は許さないと念を押された。学校に戻り翌年の夏の授業中に政夫にすぐ帰れと言う内容の電報が送られてきた。
家に帰ると民子が亡くなったと知らされた。民子はいやいやながら決められた結婚を余儀なくさせられたが、受け入れることができず病弱になり、市川の実家に帰され、ほどなくして亡くなったのだ。亡くなったその手には政夫の写真がしっかりと握られていたと聞かされた。それほどまでの二人を無理やり引き離してしまったことを政夫の母親は自分のせいだと悔やみ、政夫に謝罪をした。
悲しみの中で正夫が民子の墓に行ってみると、墓の周りには野菊の花が一面に咲いていたという。

若かりし頃、この小説に心を打たれ、胸が締め付けられるほど感銘を受け、何回もこの本を繰り返し読んだことを覚えている。千葉県成東にある伊藤左千夫の生家を訪ねたり、一時はこの舞台が水郷の方かと思いこみ、訪ねて行ったこともあった。

後にこの渡しが松戸であることも知り、それでもこの渡しを訪ねたのは今回が初めてであった。土手の上から眺めたこちら側の岸は広く、鳥もたくさんいて、そしてもの凄く美しい場所であった。吹いてくる風も心地よく、本当にいい場所であると感じた。「矢切の渡し」と書かれた板の前に立って、そっと川を眺めていると百年以上昔のその情景が確かに浮かんできた。

伊藤左千夫 野菊の墓https://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/647_20406.html

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